愛犬『H』、楽しい思い出ありがとう。いろいろごめんね。

私が二十歳の頃、約20年前の愛犬・思い出のエピソードをお話します。姉が精神の病気になり、姉が子犬の柴犬を買いました。名前は『H』と名付けられました。当時、宇多田ヒカルが出てきたからです。子どもの頃の『H』はおしっこやウンコはその辺りどこへでもやりたい放題でした。母が犬を買っている友達に相談したところ『柴犬は厳しく育てないと駄目。』とアドバイスして貰いました。母は『H』のトイレットトレーニングやお手、お座り等をしつけました。

母は『H』がトイレやお手、お座りが出来る度にたくさん誉めたり餌を与えたりしていました。『H』は食べる事がとても大好きでした。私達が食事をしたら『H』は賢くお座りをしたり、後ろ足で立ち上がったりしておねだりしていました。その姿がとても可愛くて、母は『H』にだし汁をとった煮干しを与えたりブロッコリーの芯を与えたりしていました。母が一番えさやおやつを与えていたので『H』は母が一番大好きでした。

私達が家を留守にすると『H』は寝ています。私達が家に帰ってくると『H』は眠そうな顔をしながら耳を横にして尻尾を振りとても喜んでいます。母が家に帰ってくると『H』は母の太ももに顔をうずめながらお腹を出したりしてとても喜んでいました。

当時の私の家族状況は最悪で『H』を迎え入れるべきではなかったと思います。精神の病気を患っていた姉が『H』を買ったにしろ、まともな判断や行動ができていませんでした。また、父親は会社でのストレスは酒を飲んで家の中の物を破壊する家庭内暴力でした。酒を飲めば暴れても許されると思っていたのでしょう。『H』は父親が帰ってきても、眠そうな顔しながら玄関まで行きます。酔った状況の父親は遊び半分なのか『H』にも痛い事をして『H』は「キャン。」と泣いたりしました。翌日素面になった父親に「何やってんねん。」と言っても父親は「覚えていない。」との事。何回か続き、私自身も酔っている父親と衝突する事がありました。

私は姉の病気の事もあり、母に「ここに『H』をおいていては危険や。」と忠告しました。ちょうどその時、母の友達の娘さんが鳥取に引っ越すと聞いて、母が友達の娘さんに「『H』も連れて行ってくれないか。」と相談したところ、友達の娘さんは快諾してくれました。
『H』を鳥取へ連れて行ってもらい、我が家的には一件落着のような感じでした。『H』と離れ離れになって母は私に泣きながら「寂しい、連れ戻したい。」と訴えてきました。私は「ここにいれば『H』はどうなるか分からない、堪えよう。」と母を説得しました。気丈にふるまっていた私も実は寂しくて仕方ありませんでした。『H』が寝ていた座椅子には『H』の臭いが染みついていました。一人きりになった私はその座椅子に顔をうずめながら匂いを嗅ぎ、寂しくて泣いていました。

後日、『H』をあずけた娘さんより、「離れ離れになった直後の『H』は寂しそうに泣いていたよ。」と言っていました。「けど、鳥取に行ってからは『H』は嬉しそうにしているから。」と報告してくれました。
当時の私の判断は正しかったと思いますが、今思い出すと何とも複雑な気分です。